小仏~陣馬山ハイキング



10/24(水)高尾山北側に位置する小仏から陣馬山までを縦走していました。
天気は快晴。気温は20℃。秋ハイキングには最適の気候です。

高尾駅から出ている8:12の小仏行きバスに乗り、スタート地点の小仏バス停までは、15分ほどで到着です。平日にもかからわず、バスにはそこそこの人数が乗っていました。週末は人で溢れかえりそう。

8:30 
小仏バス停から車道をしばらく歩くと登山口にたどり着きます。左方向へ進み景信山方面への道を進みました。景信山までは約1時間の予定です。
まだ、足と心臓が坂に慣れていない状態で、九十九折になって続く急坂はけっこう、きつい。けれども、快晴の眺めは素晴らしく、前を悠々と歩いていた、”高尾山系の主”って感じのお爺さんが、
「ほれほれ、あれが相模湾、そして江ノ島」
 と、懇切丁寧に説明してくれました。お天気が良いとそんな遠くまで見通せるんですね。

9:45
 景信山(727.1m)に到着です。予定より15分遅れ。この山の名前の由来は、北条景信が八王子城落城の際討たれた場所であるとか、武田氏の情勢を窺うための出城を築いた場所である、など諸説があるそうです。
 平日だったので、茶屋は開いていませんでしたが、「ああ、やっと来た、来た」と先ほどのお爺さんさんが、こちらを手招きしていました。待ってたんだ、お爺さん。左側の展望台に行くと、そこには、 おお、富士山が! 



 青い空の上にぽっかりと浮んだ、白雪の頭とコバルトに輝いた山肌は、心が洗われるような眺めです。喜色満面のお爺さんが、この風景を見せたがった気持ち、分かるかも。


 小休止をとり、ここからは、登りと下りを繰り返しながら、白沢峠を越えて、堂所山(どうことろやま)を目指しました。予定時間は50分。
 けれども、ここで時間をかなりロスしてしまいました。多分、楽な巻道を通らずにキツイ方にばかり行ってしまったのが原因だと思います。とはいえ、堂所山を登りきる寸前、3分半ほどの急坂は、木の根が絡み合ったかなり登りがいのある坂で、面白いです。3分半だから、頑張れます(笑)

堂所山までの急坂

11:10
 堂所山(731m)に到着です。こじんまりした可愛い山頂。眺めはあまり良くありません。お腹はすいたけど、まだ、昼食には早いので、我慢して次の明王峠目指して進みます。




11:45 ほぼ予定通りに、明王峠に到着。茶屋はここも平日休みなので、持参したおにぎりとか、お菓子、果物などでお腹を満たしました。同伴した友人が作ったくれた暖かい味噌汁の美味しかったこと。

さて、ここからは、短い下りと登りの繰り返しで、奈良子峠を経由して、陣馬山を目指します。
今までとこれからのルートを地図で表すとこんな感じです。




13:15
陣馬山(854.8m)到着
残念ながら、富士山は雲に隠れてしまいましたが、さすがに、関東の富士見百景に選ばれているだけあって、360°をパノラマで見渡せる展望は素晴らしかったです。けれども、この山頂の賑わいは何!? 歩いてきた道では、見かけなかった人々がいっぱいです。聞けば、すぐ近くまで舗装道路が通っていて、近くの駐車場に車を止めて展望だけを見に来る人たちがいるとか。う~ん、苦労して私たちはここまで登ってきたのに。でも、それもアリか。







小休止を入れて、13:45。さあ、下山です。急がなければ、陣馬高原下バス停から高尾駅行き、15:26のバスに乗れなくなる。それを逃すと1時間待ちになってしまうので、次の和田峠に向けて急ぎます。だが、ラスボスの”陣馬街道”のことを考慮していなかったのは、道中最大急の誤算でした。

 ”陣馬街道”

 それは、名前とは裏腹に面白くも何ともない、ただの自動車道路。おまけに下りの坂道、多数のヘアピンカーブ有り。目標の陣馬高原下バス停までの3.4キロの道を延々と1時間余り、薄暗い道を歩くだけです。
 つま先は痛くなるし、舗装道っていうのは、足にも優しくないので、まさに苦行です。お、後ろ向きに歩くとけっこう楽(……危ないことは止めましょう)結局は、バス停にたどりついたのは、15:35。わずか、10分余りの遅れで1時間に1本しかないバスに乗り遅れました。くそぉ、悔しい……。

「ああ、バス、行っちゃたんだよね~」

 バス停横にある茶屋の親父が、そこはかとない笑みを浮かべながら、目で店に誘うのです。「冷たい沢があるから、手を洗っていいよ~。荷物も置いてね」
 商売上手だなぁと、思いつつも、アイスクリームなどを食べてしまいました。でも、350円で時間待ちをさせてくれるんだから、やっぱり有り難い。私たちの後からもバスを逃した客たちが続々と入ってきました。

16:26
やっと、バスが来て、高尾駅に向けて出発です。およそ40分の乗車でスタート地点へ戻ってゆきました。高尾山駅到着は17時過ぎ。1時間に1本のバスはけっこう混んでいました。今回は時間が遅くなってしまったので、温泉に入ることができず、かなり残念。
 
今回の敗因は、やはり景信山から堂所山への歩きが遅かったことだと思います。下山の時に親指が痛かったのも原因。下りる時に靴紐を足首でもっときつめに縛っておけばよかった。とはいえ、景色は素晴らしく、好天にも恵まれて、楽しい山歩きでした。次は陣馬山~高尾山へのロングコースも歩いてみたいですが、相当な早起きが必要そうです。



小仏~陣馬山 距離約12km
所要時間(休み含む) 約7時間

     

上野の森美術館 ツタンカーメン展


10/12に東京、上野の森美術館で開催されているツタンカーメン展に行ってきました。
しかし、長時間の待ち時間の末に混み混みの中で観るのは、避けたい。やりたくない。

「チケットを取って観て、家に帰るまでが美術鑑賞」

と、いうことでまずはHPで混雑の様子を調べてみました。

http://kingtut.jp/

ここのHPを観れば、現在の混雑状況がリアルタイムが表示されています。最近はかなり混雑が解消されているようで、平日なら30分待ちくらいで入れるようです。前売り券を買って、整理券を取るのが1番良いかも。
私たちは、金曜日の12:40に待ち合わせ、13:30~13:45入場分の整理券を取りました。入場後は、ゆったりと鑑賞することができました。会期終了真近になると、超絶に混むようになるので、10月、11月、特に平日は狙い目かもしれません。



ツタンカーメン展 入口

さて、ここからが本編です。
整理券入場者の列からエンタランスホールに入り、3分ほどの紹介PVを見るのは、まるでアミュージメントパークのよう。そして、展示室の扉が開かれると、暗い廊下の先で、もの凄いオーラを放った”ツタンカーメンの立像”が入場者を出迎えてくれます。



古代エジプトの王権は、紀元前3200年ごろ、ナルメルが上下エジプトを統一して初代エジプト王となったのが始まりでした。ツタンカーメンは第18王朝のファラオとなります。

10歳で即位し、19歳で亡くなった、この少年王のプロフィールは未だに謎に包まれています。どこで生まれ、どのように育ち、誰と結婚し、どう死んだか。けれども、絵文字ヒエログリフ、神殿や壁に書かれた碑文、墓から見つかった副葬品、ゴミ塚からは、日々の生活の様子が、埋葬時に供えられた花からは亡くなった季節が、そして、ミイラの骨のDNA鑑定やCTスキャンなどの科学技術やエジプト学者たちの研究の成果のおかげで、現在ではその謎も少なからず解明されているようです。

ツタンカーメン展の展示物、全122点は、おおむね、その時代別に展示がなされていました。
ツタンカーメンが現れる以前の展示物で一際、目をひくのは、彼の祖母チュウヤの人型棺でした。チュウヤは、エジプト史上、最も楽園に近づいたといわれるアメンヘテプ三世(ツタンカーメンの祖父)の妻、ティイの母にあたり、平民にも関わらず、王と変わらぬ豪華な棺に納められたというのは異例のことでした。アメンヘテプ三世がいかに妻の実家を大切にしていたかが分かりますね。



棺の全面には、ミイラを守護する神々の像や呪文が刻まれてます。
観覧者は、チュウヤの胸の部分に羽根を広げる天の女神ヌウト、側面にジャッカルの頭を持ったミイラ作りの神アヌビス。足の部分に女神ネフティス、その姉妹イシスの姿を見ることができます。


  ミイラ作りの神アヌビスです。

  ついでですので、当時のミイラの製法について記しておきますと、
  ミイラ職人たちは、まず、遺体の腐敗がはじまらないうちに、一番水分の多い、脳と内臓をすばやく取り除く作業を行いました。その工程は、こんな感じです。

1.鼻孔に長い針金を差し込む。
2・鼻腔と両眼窩との間にある骨を砕き、そこに針金を入れて泡立て器のように脳をシェイクし、(げ…)、逆さまにした遺体の鼻から脳を流しだす。
3.脳を取り出してから、左の脇腹に切り込みを入れて、胃、肝臓、腸、腎臓を取り出し、乾燥させてカノポス壺の4つのミニチュア棺に納める。

 古代エジプトでは、「死亡から七十日で死体の処理を完了させる」という大原則があったそうです。これは、豊穣・再生のシンボルの星座シリウスが、地平線に隠れて見えない日数と一致し、七十日すると、地平に隠れていた星は、再び空に見えるようになることから、七十日すると人は冥界に蘇るという思想があったようで、死者が死体を蘇らせる呪文を唱えるときに備えて、心臓だけは体に残されたそうです。
ちなみに、今回の展示会ではツタンカーメンの内臓を納めた棺型カノポス容器がきています。美しいですね~。


              ツタンカーメンの棺型カノポス容器

ただ、カノポス容器は、ツタンカーメンの兄スメンクカラーの物だといわれています。容器に彫られた顔がツタンカーメンとは違うそうです。そういえば、ツタンカーメンはもっとイケメンだったような……早逝した少年王のカノポス容器はミイラ作りに必要な七十日後の埋葬までに間に合わなかったのかもしれません。


下の写真は、展示物の1つで、ツタンカーメンの父、アクエンアテンの胸像です。けれども、この胸像、これまでの丹精な顔だちの王たちの胸像に比べ明らかに異形だとは、思いませんか。
指が異常に長い、顎が尖る、脂肪の付き方が不自然という特徴から、彼はマルファン症候群と言われる遺伝的な奇形だったのではないかとの推測があるようですが、決定的な証拠はなく、本人のミイラの特定がなされた今、今後の研究が待たれているようです。



このアクエンアテンが治世4年目に行った宗教改革は、世界初の一神教、アテン教への改宗、首都テーベからアマルナへの遷都、周辺諸国への戦闘のための遠征の中止など、古代エジプトをそれまで支えてきた土台を根本から覆したものでした。
アクエンアテンは、戦闘を嫌い、家族を愛し、おだやかな日常を大切にしました。その仲睦まじい様子は、当時の壁画にも残されています。
ただ、彼の愛は自分の廻りや家族のみに向けられており、王が兵を率いて遠征をしなくなり、周辺諸国からの税が入らなくなった一般の民の暮らしはひどくなる一方でした。やがて、アクエンアテンが亡くなった後に、男の子のいなかった王妃ネフェルティティは、アクエンアテンの側室キヤから引き取ったツタンカーメンと、自分の三女のアンケセナーメンを結婚させました。ツタンカーメン10歳、アンケセナーメン12歳。異母姉弟同士の結婚です。

政略結婚のような形で夫婦になった二人でしたが、夫婦仲は良かったようです。
今回の展覧会の展示物、黄金の厨子の側面に描かれた絵には、ツタンカーメンがアンケセナーメンの手に香水をかけてやっているシーンやその他、2人の仲睦まじい様子が多数、描かれています。また、ツタンカーメンが子供の頃に遊んだであろうゲーム(さいころ)なども展示されていました。

黄金の厨子
              さいころ 
 
                   ツタンカーメンとアンケセナーメン




ツタンカーメンの妻、アンケセナーメンの彼への愛情は、彼女がツタンカーメンの棺に手向けた花輪を見ても伺い知ることができます。同時にその矢車菊で編まれた花輪からツタンカーメンが亡くなった季節は12月か1月と推測することができます。なぜなら、当時のエジプトで矢車菊が咲くのは、3月から4月。ミイラ作りに必要な70日を逆算すると……というような訳です。

仲の良い2人にも、哀しい出来事もありました。アンケセナーメンの2度の流産です。

ツタンカーメンの棺には2つの小さな子供のミイラが同棺されていましたが、その中の1つはDNA鑑定でツタンカーメンの娘であることが判明しています。(もう一つは、防腐剤の影響によい測定不能)ただ、この子供のミイラは流産しなければ、奇形として生まれてきたであろうことが分かっています。近親婚を繰り返す当時の習慣がこのような結果になってしまったのかもしれません。


ツタンカーメンの子供の木棺


上記は展示物のほんの一部なので、ここで、その他の私が印象深かった物をおおまかに紹介します。


  アンク型祭具 アンクは”生”を表し、これを祭る者は1度だけ生き返ることができると信じられていました。


 有翼スカラベ付胸飾り
 古代エジプトでは、スカラベは再生や復活の象徴である聖なる甲虫とされていました。


 ツタンカーメンのシャブティ
 蘇った時に王が困らないように召使の形をした像を一緒に埋葬しました。


 ツタンカーメンのカルトューシュ カルトゥーシュとは、王の在位年と名を記したヒエログリフ(絵文字)です。ツタンカーメンのカルトューシュには、ツタンカーメンの即位名(ネブ・ケペル・ラーと読む)と幸せの象徴ケペル(別名スカラベ)が意匠として示されています。




 王家の谷から発掘された数々の副葬品は、直接には私たちに何も語ってはくれませんが、それらは、歴史の謎を紐解こうとする研究者たちを介して、古代エジプトにすでに確立されていた高度な技術や、複雑に絡み合った政治的背景、当時の王の家族を取り巻く愛情や陰謀までもを後世に伝える役割をはたしてくれています。
 現代の日本にいながらにして、古代エジプトを彩った素晴らしい歴史に触れることができる。ツタンカーメン展は、そんな貴重な時間を観覧者に与えてくれるのかもしれません。

     

主題が分かると絵画って面白い(神話編)


 絵画の鑑賞はフィーリング、事細かな主題まで事前に理解する必要はないと言う方もおられるかも知れません。けれども、その絵を描いた画家は、間違いなくその絵の中に、鑑賞者に見てもらいたいと思う主題を忍ばせているものです。

 例えば、神話をモチーフにした絵画なら、ユピテル(ゼウス)とアポロ(アポロン)が親子であることを知っていても、アポロはユピテルの正妻ユノ(ヘラ)の子供ではなく巨人族の娘レトとの間の子であるとか、美の女神、ヴェヌス(ビーナス)が、泡の中から生まれたと聞いたことがあっても、その泡は天空神ウラノスの生殖器を息子のクロノスが切断した時に滴った精液が海に落ちて出来た泡だと知っている人は多くはないでしょう。そのせいで、この女神のまわりには愛だけではなく、いつも背徳とか嫉妬、残酷などの感情がつきまとっているのです。

 神話の登場人物の出生や彼らにまつわる出来事を知っていれば、絵画鑑賞はもっと面白くなるはず! そこで、神話をテーマにした何枚かの絵を紹介したいと思います。

ユピテル(ゼウス)

その名は「天なる父」をあらわすローマの主神。稲妻を武器に使い鷲を傍に従える。ただ、ユノ(ヘラ)という正妻がいるにも関わらず、多くの女神、人間の女性を誘惑して数えきれないほどの子供をもうけている。手くせが悪い神である。

アングル 【ユピテルとテティス】




これは英雄アキレウスの母テティスが息子のためにトロイア戦争の戦局をめぐって、頼みごとをしにきた時を描いた絵。ユピテルは堂々とした姿だが、以前、彼がテティスを誘惑しようとしたこともあり、画面の端に嫉妬に燃えるユノの顔が見えるところが怖い。


ユノ(ヘラ)

ユピテルの正妻で最高の女神。けれども、発展家の夫のせいで猜疑心の強い嫉妬深い性格。そんな二人の間にも、火の神ウルカヌスと軍神マルスという息子があった。もっともユノはウルカヌスを一人でもうけたという話もあるのだが(…え)

アングル 【ユピテルとユノ】




ユノがユピテルと交わす愛の情景。ユノが胸の下にまいているのは、ウェヌス(ビーナス)からの借り物の帯で、女性の魅力を高める力を持つ帯。そのせいかユピテルの表情が何となくだらしない。


ユピテルは驚くほど多くの女性と浮名を流しました。たいていはユノの嫉妬を受けて、酷い目に遭うことが多かったようですが、そんなエピソードを主題に様々な絵画が描かれています。

ティツィアーノ【エウロペの略奪】




ユピテルは地中海の東、フェニキアの王女、エウロペを見染め、さっそく牡牛に姿を変えて、彼女を略奪。クレタ島で我物にしてしまった。エウロペは彼の間に3人の子をもうけ、その時の牛が牡牛座になった。


クリムト【ダナエ】




アルゴスの王アクリシオスは、自分が娘ダナエの子に殺されるであろうと信託を受け、彼女を青銅の塔に閉じ込めてしまった。しかし、彼女を見染めたユピテルは金の雨に姿を変え、まんまとダナエと交わった。欲望のためには、神だけあって変幻自在である。こうして生まれたのがペルセウスである。やがて成長したペルセウスが競技で投げた円盤が居合わせたアクリシオスにあたり、信託は果たされてしまった。

クリムトの作品では、黄金の雨となったユピテルを受け入れるダナエは恍惚ともいえる表情を浮かべている。

コレッジオ【ガニュメデス】

 トロイア王家の祖、トロスの息子、ガニュメデスは目を見張るほどの美少年であった。趣味の広いユピテルが、天上の酒宴で酒杯を捧げる従者にしようと聖なる鷹か自分自身かが鷹に変わって彼を誘拐した。後にユピテルは彼の父のアポロを遣わし、不死の馬を贈ったという。なお、酒の入った壺をもったガニュメデスの姿が水瓶座となり、彼をさらった鷲が鷲座となった。

 また、ユピテルは飽きもせず、アルゴス王の娘イオの美しさに惹かれ、雲に姿を変えて誘惑したが、妻のユノの怒りに触れてイオを牡牛に変えた。疑い深いユノの散々の攻撃にさすがのユピテルも最後は陳謝し、イオはやっと人間の姿に戻れるようになる。

コレッジオ【イオ】





 ユピテルの発展家ぶりは呆れるほどで、ユノが嫉妬深くなってしまうのも仕方ないのかもしれませんが、誘惑された女性たちの恍惚の表情は、さすが神! といったところでしょうか。特にクリムトのダナエはぞくりとするような色香を放っていますね。


 ユピテルを先頭に、やりたい放題の神々ですが、神といえども、運命を己の望むままに変えることはできなかったようで、その物語は、欲望、嫉妬、羨望、憧憬、恐怖等など、人間臭くもある彼らの行いは、画家たちのかっこうのモチーフとなったのは言うまでもありません。以下は有名どころの神々とそのエピソードのほんの一部ですが……


プーサン【詩人の霊感】

太陽神アポロは、ご存じの方も多いはず。火の車に乗り、空をかけめぐる姿は、映画やアニメなどにもよく登場し、まさに神の中の神といった具合ですが、その息子、フェアトン(パエトーン)が彼に借りた火の車に乗り、オリンパスの山々を焼き尽くしたという話は特に有名です。
 また、女神ディアナは彼の双子の妹であり、二人そろって弓の名手でもあります。彼はギリシャ神話では太陽神とも同一視され、音楽の神でもあり、姿は男性美に満ちた理想的な姿として描かれることが多いのですが、父の好色の血はさほど受けついていないようです。




この絵では、アポロが、詩や芸術の女神ムーサと愛の天使クピドを従え、詩人に霊感を与えてる姿が描かれている。

クリムト【パラス・アテナ】ミネルヴァ(アテナ)

 ギリシャのアテナと同一視される最高の女神。知恵と諸芸術をつかさどる女神ですが、その出生は凄まじいものがあります。ユピテルの最初の妻(ユノとは違う)が身ごもった時、彼女が次に産む男児がユピテルの王座を奪うと信託を受け、ユピテルは何と! 妻を呑みこんでしまいます。月の満ちた時、火神ウルカヌスがユピテルの額を斧で叩き割ると、そこから完全武装したミネルヴァ(アテナ)が飛び出してきました。びっくりですね。彼女は戦略の女神であり、機織りの女神、アテナイ市の守護神でもあります。




クリムトが描いた彼女の胸に描かれた怪物メデューサの首は、英雄ペルセウスの怪物退治に知恵を授けたことのお礼にもらったものである。持ち物は知恵の象徴のフクロウ。


ボッテチェリ【ウェヌスの誕生】ウェヌス(アフロディテ、ビーナス)


ギリシャのアフロディテ(ビーナス)と同一視される愛と美と豊穣の女神です。彼女は火神ウルカヌスの気まぐれな妻でしたが、軍神マルスと通じ、その間に生まれた子供が愛をつかさどるクピド(キューピット)とも伝えられています。こちらも巷では知らない人がいないほどの知名度の高い女神です。




ボッテチェリの名作で彼女に風を送るのは、西風の神ゼフュロス、彼が抱くのはニンフのクロリス、またウェヌスに衣をかけているのは、季節の女神ホーラである。彼女がホタテ貝に乗るのも通例である。恥じらいを含んだ乙女という図柄だが、中にはおよそ恥じらいとは程とおい奔放なポーズのウェヌスも少なくない。

ベラスケス【鏡の前のウェヌス】



クピドに鏡を持たせて自分の姿に見入るウェヌス。ただ、鏡の中の表情は少しやつれたような、老けたような……。少し意味深な感じがする絵です。


ジェラール【アモルとプシュケ】クピドとプシュケ

普段は愛の使者であるクピドが、ウェヌスの嫉妬をかうほどの美貌の王女プシュケと恋におちた物語があります。

クピドは彼を神だと知らないプシュケを谷間の宮殿に連れてゆきそこで夫婦になりました。けれども、会うのはいつも暗闇なのを不審がったプシュケがクピドの姿を見てしまったことから、プシュケは罰を受け、冥界をさまようようになり、開いてはいけない冥界の箱を開いてしまった彼女は永遠の眠りについてしまうのですが……最後にクピドの愛が彼女の眠りを解いて二人は結ばれるってな話です。



ジェラールの絵は、愛の力で目覚めたプシュケとクピドと永遠に結ばれるという主題のもとに描かれた絵で、神話編では私の一番のお気に入りの絵です。
この絵は、美しい絵ですが、2度までも好奇心に負けるプシュケの人間の弱さを描いた寓話としての意味合いももっています。


ジェローム【ピュグマリオンとガラティア】

キュプロスの王ピュグマリオンは女性不信で永く独身を守っていましたが、彼は自分が造った象牙の女性の彫像に恋をしてしまったのです。そして、「私にこの像に似た乙女を与えてください」とウェヌスに祈る王に女神は快く願いを聞き届けてくれたのです。




 王が彫像に口づけすると、彫像の乙女は目を開いた。王はこの乙女にガラティアと結婚した。
 ジェロームが描いたガラティアは王のアトリエで今まさに生を得ようとする瞬間だが、彼女の足元はまだ堅く冷たい彫像のままである。右側上に愛を司るクピドの姿が描かれていることも、この二人が結ばれるであろうことを暗示している。


いかがでしたか。ジェロールの絵のガラティアの固い足元が生足に変わってゆく様の表現! ピュグマリオンと同じに彼の絵画からもガラティアのような乙女が生まれてきそうです。

主題から見る絵画ってすごく面白いと思いませんか。また、私も色々と勉強してみたいと思っています。



参考文献
西洋絵画の主題物語Ⅱ 神話編 美術出版社


プロフィール

kazanasi

Author:kazanasi
絵画、小説を中心に観たり読んだり、自作で作ったり。サブカル全般に興味があります。暖かい時期には山登りもします。アナログとデジタルの間を行ったり来たりしてる人間です。


【kazanasiの本】




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