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国立新美術館 『ミュシャ展』と『草間彌生展 わが永遠の魂』(ミュシャ展編)


 『国立新美術館の広大な展示室がこれほど生かせれたことがあったか。アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の展覧会で全20点の壮大な「スラブ叙事詩」を目していて、そう感じた』
                                                   東大教授、三浦篤(5/16 朝日新聞(夕刊)

 それもそのはず、 一つの作品の大きさが、610cm×810㎝! (縦6メートル10センチ、横8メートル10センチ)それが20点ですから、今回の「ミュシャ展」を観た時の迫力といったら、まるで、自分が絵の中に入り込んだような臨場感でした。
 そして、ミュシャ展と同時に、新国立美術館で催されていたのが、『草間彌生 わが永遠の魂』でした。

『同じ(国立新美術館)では、草間彌生展(22日まで)も同時に見られたが、まさしく前衛アート展とミュシャ展の併存こそが、イメージへの欲望が開放された現代を象徴しているように思えた』
                                                   東大教授、三浦篤(5/16 朝日新聞(夕刊)

 この2つの展覧会が同時に国立新美術館で催されているのを知った時は、私もかなり贅沢だと思いました。また、ミュシャ展の半券を窓口で見せると、草間彌生展のチケットが100円引きになる特典があったことも有難かったです。

 というわけで、国立新美術館で4/28(金)にミュシャ展を、5/2(火)に草間彌生展を観に行ってきました。

 ここでは、まずは、最終的に66万1906人の入場者を集めて閉幕したミュシャ展を紹介したいと思います。


 ミュシャ展、《スラヴ叙事詩》
           ミュシャ展


 アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, 1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、アール・ヌーボーを代表する旗手として名高い画家で、代表作には舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターや「椿姫」「黄道十二宮」「四季」「四つの花」等など多数の魅力的な作品を残しています。


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                           「ジスモンダ」

         四つの花「カーネーション」、「ユリ」、「バラ」、「アイリス」
                     四つの花「カーネーション」、「ユリ」、「バラ」、「アイリス」



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                「メディア」                    「ジスモンダ」
           

                 ヒヤシンス姫
                            ヒヤシンス姫

  ヒヤシンス姫は、 鍛冶屋の娘のハニチカが夢の中でヒヤシンス姫となって貴族や錬金術師など3人の求婚者たちとおりなす恋あり冒険ありのおとぎ話。可愛い!



 今回の「スラブ叙事詩」はミュシャと言えば”これ!”と思い浮かべるお洒落なポスターとは、一転、違って作風が重厚になり、サイズも最大でおよそ6m×8m。基本はテンペラ画、一部油彩である全20作から成り、題材は、チェコおよびスラヴ民族の伝承および歴史 ― 太古の時代から1918年のチェコ独立までを描いています。そして、今回、新国立美術館での展覧会においての「スラブ叙事詩」全作品の展示は、チェコ国外においては初めてのこととだそうです。ありがとう、新国立美術館!

 「スラブ叙事詩」の展覧会場に入ったとたんに、その作品の大きさに圧倒されてしまいます。

ミュシャ展
      絵の上の部分を観るために双眼鏡を持ってきている人もいました。
          170428_173310.jpg




 そして、その中でも一番最初に目に飛び込んでくる作品は、チケットのデザインにも採用されてる『原故郷のスラヴ民族』です。

ミュシャ

 『原故郷のスラヴ民族』
 1912年、610 x 810 cm 油彩/テンペラ画
 3~6世紀、異民族の襲撃におびえるスラヴ人。後方には襲撃によって燃え盛る炎と、家畜そして人間を略奪する異民族が描かれる。前方右 手にはキリスト教以前の司祭、前方左手には異民族から隠れるスラヴ人の男女が描かれ、スラヴ人の独立と平和への願いが描かれている。


   ミュシャ
       司祭の後ろから顔を出す男女は、防衛と平和の擬人像

                                カット
                               異民族から隠れるスラヴ人の男女
                               彼らの目の表情から怯えが伝わってくる。


 次に、上記の他、今回の展覧会で観た「スラブ叙事詩」の中でも、特に印象に残った作品を紹介しておきます。


      『スラヴ式典礼の導入』1912年 610×810cm テンペラ、油彩
      大ボヘミアにおけるスラヴ的典礼の導入 — 母国語で神をたたえよ

   9世紀、ヴェレフラード城の中庭で、王にスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面。
  キリスト教国となったモラヴィア王国では国王ラスチスラフがラテン語からスラヴ語(古代教会スラヴ語)による典礼を導入した。
  手前の青年が掲げる輪は、スラヴ人の団結を表わしてる。
       

 『東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン』 1923年 405×480cm テンペラ、油彩
東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン

 季節は春、イースター(復活節)の日に東ローマ帝国皇帝に戴冠したステファン ドゥシャン (ウロシュ4世) が民衆の祝福を受けて行列に出かけるところ。
 1346年、ドゥシャンが皇帝となったことによってカレル4世の神聖ローマ帝国とともに東ローマ・西ローマ(神聖ローマ)両帝国にスラヴ人の皇帝が君臨し、イングランド王国とフランス王国以外の全ヨーロッパがともに名君のスラヴ人皇帝のもとにあった。スラヴの人たちにとってこの時代はスラヴの春、栄光の時代として今も記憶されている。
 
 画面中央にお付きに囲まれるドゥシャン、先頭には民族衣装の少女が描かれている。彼女たちが持つオリーブの枝は平和を表わし、希望と明るい未来の象徴として描かれている。

                 ミュシャ展5
                              可愛い!


 けれども、いい時代は永遠には続きませんでした。

 「 ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー」 1918年 テンペラ/油彩 405×610cm
ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー                  

 ペトル・ヘルチツキーは宗教改革に影響を与えた思想家の一人であったが、戦争や軍事的行為には反対する平和主義者であり、フス派とは一線を画していた。この作品に描かれているのは、フス派によって襲撃されたヴォドニャヌイの町と、家を焼かれた住民たち、そして犠牲となった人々である。何の罪もない人々が犠牲となったというフス戦争の暗い一面を描いている。画面中央で聖書を抱えた姿で描かれたヘルチツキーは、戦争の犠牲者たちを慰め、また心を復讐に向かわせないよう諭している。 
 

                        201406071252535.jpg

    
    横たわる人々からは流血の描写はなく、傷ついた様子も描かれてはいないが、おそらく遺体であろう。
    作品の中の人物たちは、この画面中央に描かれている母親以外は誰も目線を正面に向けていない。
    その分、母親の慄(おのの)く瞳と目線が合った時、私たちは、戦争の悲惨さを知らずにはいられないのだ。
    母親が抱く赤子は息をしているのだろうか…。


    そういえば、この絵の前に立った時、突然、絵の中から人々の悲観する声がざわざわと聞こえてきたような気がしました。
    誰かの音声ガイドの音が漏れてたのかしら? 今でも不思議な気分です。


     『聖山アトス — オーソドクス教会のヴァチカン』1926年、405 x 480 cm 油彩/テンペラ画
     Mucha,_Alfons_-_Der_Heilige_Berg_Athos_-_1926

アトス山は正教会の聖地であり、また南スラヴ人にとっても重要な場所であった。中央に大きく描かれた聖母マリアと 幼いイエスが描かれており、その手前には慈愛と信仰の寓意像が描かれている。左右には実在する修道院の模型を持つ天使たちが描かれる。

実際の絵は、近くで見るとここに載せた写真よりもっと緑の色が艶やかで、絵の周りの空気までも緑の光に染まっているような……とてもファンタジックな気分に浸ることができました。



        170428_173210.jpg        170428_173616.jpg
                 実際に会場の撮影許可ゾーンで撮った写真(2枚)です。




     『スラヴの菩提樹の下で誓いを立てる若者たち】 1926年、405 x 480 cm 油彩/テンペラ画
     ミュシャ1

白山の戦い以降ボヘミアはおよそ300年間ハプスブルク家の支配下に置かれた。近代に入るとヨーロッパ諸国で民族運動 が盛り上がり、チェコでもまた1890年代にオムラディーナと呼ばれる若者たちによる民族運動団体が結成された。作中では若者たちが輪になってスラヴの女神スラヴィアに誓いを立てる場面が描かれている。女神スラヴィアは占術のシンボルである菩提樹に腰かけている。
 
    手前でハープを奏でる女性のモデルは、ミュシャの娘ヤロスラヴァであり、少女の対称にあたる右手に腰かけている若い男 性はミュシャのムスコ、イージーがモデルである。この作品はいくつかの人物が油彩で仕上げられておらず未完成作とも言われている。


         ミュシャ2                Mucha_Omladina.jpg
           ミュシャの娘 ヤロスラヴァ                   ミュシャの息子 イージー        
 





             『スラヴの歴史の神格化』1926年、480 x 405 cm 油彩/テンペラ画
             スラヴ民族の賛歌

           スラヴ叙事詩の最後を飾るこの作品は、スラブ叙事詩、全20点の集大成となる作品で民族自決を求めた
           スラヴの人々の戦いの歴史が、4つの色で表現されている。

           右下の青い部分           神話的な時代。
           左下の赤い部分           中世のフス戦争とスラブ民族の勢力拡大。
           上の赤い部分の下の黒い人影     他国の支配を受けた抑圧の時代。
           中央の黄色に彩られた人々      1918年のチェコスロバキアの独立により達成された
                                                          自由・平和・友愛の勝利


画面上部のたくましい青年は、チェコスロバキアの他、第一次世界大戦に独立を遂げた民族国家を象徴し、大きく広げた両手に自由と調和を意味する花輪を持っている。



 「スラヴ叙事詩」が完成した時、チェコスロヴァキア共和国は独立して10年が経っていました。「スラヴ叙事詩」に込められたメッセージや歴史画としての手法は”時代遅れ”とされ、20点の作品は、プラハから遠く離れたモラヴィアの古城に閉じ込められてしまいました。
 けれども、そのわずか20年後、チェコスロヴァキア共和国はナチスドイツに解体され、大戦後もソ連の共産党支配体制に組み込まれてふたたび独立するのはミュシャ没後50年の1989年になってからのことでした。
 今、戦争や核、テロと経済不況の不安が渦巻いている世界で、「スラヴ叙事詩」のメッセージはチェコ国民だけでなく人類に普遍のものと見なおされつつあり世界中で再評価がはじまっています。

         Alfons_Mucha_at_work_on_Slav_Epic.jpg
                          スラブ叙事詩を製作中のミュシャ



  *参考 「スラブ叙事詩」の全作品を解説してあるサイトです。
               ↓
       スラブ叙事詩全作品解説
  
  また、簡単なチェコスロバキアの年表も追記しました。今回、スラブ叙事詩を鑑賞する上で、チェコの歴史を知ることが必須だと
  ひしと感じてしまいました。私は普段は美術館で音声ガイドは使用しないのですが、今回ばかりは借りたら良かったなぁと後に  なって後悔しました。次の機会には、音声ガイドを使ってみるのもいいかもしれないと(*^_^*)

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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

     

「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎!世界が認めたその画力」を見に行ってきました



 4月14(金)に、東京都渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで催された
 「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎!世界が認めたその画力」を見に行ってきました。

 開催期間は、2017/2/23(木)-4/16(日)


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 私が河鍋暁斎の名を知ったきっかけは、2015年に、三菱一号館美術館、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館で開催された展覧会のコピー

 ”狂っていたのは、俺か、時代か?”

 があまりにも、かっこ良かったからです。それに合わせて紹介されていた暁斎の絵の奇想っぷりにも心惹かれました。
 最近は、国内外問わず”奇想の作家”が大ブームです。美術館の入口に長蛇の列を作った伊藤若冲や、海外のボス、アルチンボルト、ブリューゲルなどの展覧会が目白押しです。


                  《これが私を魅了したポスターだ!》”狂っていたのは、俺か、時代か?”
                   暁斎


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                               《化け猫》
                          猫の肉球が… サイズもでかい
                              
               河鍋暁斎『三味線を弾く洋装の骸骨と、踊る妖怪』明治14-22(1881-89)年
                    《三味線を弾く洋装の骸骨と、踊る妖怪》明治14-22(1881-89)年
                    西洋風の衣装で三味線をひく奏者はどくろ。何もかもがユニークです



  残念ながら、三菱一号館美術館の展覧会は見に行くことができなかったので、今回、渋谷のBunkamuraで催された展覧会は絶対に逃すものかと会期が始まるのを今か今かと待ちわびていました。

 暁斎の大まかなプロフィールはこんな感じです。

 《河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)》

 天保2年(1831年)、下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)にて、河鍋記右衛門ときよの次男としてに生まれる。
 父は古河の米穀商亀屋の次男の生まれで、古河藩士・河鍋喜太夫信正の養嗣子で、母は浜田藩松平家の藩士三田某の娘。

 幼い頃から絵を好み、浮世絵師歌川国芳に続いて駿河台狩野派に絵を学び、その画才を賞して「画鬼」と呼ばれた。
 師・国芳の人の様々な形態を注意深く観察すべきだという教えに従い、梅雨の長雨による出水時に神田川で拾った生首を持ちかえり写生して、周りの人々を驚愕させたという話は有名。また、火事現場で火災の様子を写生もしていたとか。

 暁斎は、無類の酒好きとしても知られるが、生涯を通じて知り得る限りの浮世絵や西洋画の画法を研究し、仏画や山水画、戯画や風刺画まであらゆる主題に精通した。聖と俗、貴と賤をない交ぜにした暁斎の作品は、江戸から明治への転換期の混沌とした様相を鮮やかに描き出している。
 明治14年に、後に暁斎の作品の収集家として名を馳せる建築家ジョサイア・コンドルが弟子として入門する。 コンドルは暁斎からイギリスの暁斎を意味する「暁英」の号を与えられるほど親しかった。
 晩年は、根岸(現・荒川区東日暮里)に住み、区内の寺院や料亭に数点作品が残っており、郷土の画家としても大いに評価すべき人物である。
 明治22年(1889年)、胃癌のため逝去。
 暁斎は死の3日前、絵筆を取りたい欲求に抗し難く、枕後ろの障子にやせ衰えた自分の姿と、もうすぐ自分が入るであろう角型の桶を描いたという。
 墓所は谷中にある瑞輪寺塔中正行院、墓石は遺言により、自然石を重ねており、一番上の石は蛙をかたどったもので、蛙を殊のほか愛した暁斎らしい墓石といえる。

 実はこの谷中、瑞輪寺がたまたま、私の職場に近かったせいもあり、お昼休みに暁斎の墓所を見に行くことができました。
 少し奥まった位置にあったので、探すのに苦労しましたが、あの風変わりで超絶な技法の絵を描いた画家が、ここに眠っていると思うと、とても感慨深いものがありました。

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           瑞輪寺の門           ちゃんと暁斎の墓と書かれています。
                        墓標には、次男の暁雲や長女の暁翠の名前等も刻まれていました
                               蛙に似せた墓石が人目を引きます。

 
 今回の暁斎の展覧会は、画商、イスラエル・ゴールドマンのコレクションからの出品でした。


   序章「出会い」

   世界有数の暁斎コレクションを持つイスラエル・ゴールドマン氏が、暁斎のコレクターになるきっかけとなった作品
   象の長い鼻にたぬきが手を伸ばす仕草が可愛いです。ちょっと、たぬきの絵が鼠っぽくも見えますね。

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                      明治3(1870)年以前 「象とたぬき」


                    《鯰の曳きものを引く猫たち》 明治4-12年
                       《鯰の曳きものを引く猫たち》 明治4-12年



  第1章「万国飛」


  暁斎は、安政5年(1858)頃には皮肉や風刺、滑稽味を持つ狂画を描きはじめ、「狂斎」と名乗っていました。しかし、明治3年、不忍池の料亭で新政府の役人を風刺する滑稽画を描き、逮捕されてしまいます。鞭打ちにあったりして、暁斎はこの恥辱を深く後悔し、筆名を「狂斎」から「暁斎」と変えます。
  しかし、4年後の第2回内国勧業博覧会で、「枯木寒鴉図」など4点を出品、それが賞を取ると、鴉は暁斎を一挙に海外に知らしめた作品となり、暁斎は海外に飛んでいく鴉を思い、鴉と万国飛の文字を組み合わせた印を作りました。

       河鍋暁斎《二羽の泊鴉に山水図》明治16年             烏瓜に二羽の鴉
        《二羽の泊鴉に山水図》明治16年              《烏瓜に二羽の鴉》明治4~22年

  第2章「躍動するいのち」

  暁斎は鴉をはじめ、鷺、虎、象、狐から鼠や猫、また蛙や昆虫などの動物を自由自在に描きました。その多くは実物の写生に基づいています。
 暁斎は動物たちを擬人化、絵の中の動物たちはまるで人間のように踊り、歌い、自由な彼らの動きは、手足がありえない方向に曲がっていたりしても、少しも不自然さを感じさせません。


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                           《蛙の踊り》
                           狂喜乱舞(^^)



    《動物の曲芸》 明治4-22(1871-89)年
                   《動物の曲芸》 明治4-22(1871-89)年    


                             
                             蛙の放下師(ほうげし)
                          《蛙の放下師(ほうかし)明治4–22(1871–89)年
                                愛嬌と躍動感がたっぷり


                            河鍋暁斎「猫と鯰」 1871-89年
                                《猫と鯰》1871-89年


  第3章「幕末明治」

 江戸から明治に時代が変わり、人々は、大きな価値観の変化を受け入れざるを得ませんでした。しかし暁斎はいかに周囲が変わっても変わりのない人間の本質を描きました。
 
 版画の世界では描写がもっと過激になり、師の歌川国芳を凌駕するほどのダイナミックさで描かれています。


          開化放屁合戦絵巻
                            《開化暁斎絵巻》
                           
              暁斎の他にも放屁合戦を描いた絵巻は江戸時代には多数あり、世界を驚かせたそうです

 興味があったので調べてみると、暁斎以外の作品なのですが、こんなサイトがありました。確かにすごい(笑)でも、あけっぴろげというか、とてもユーモラスで独創的! おもしろいです。とばっちりを受ける猫の絵は、気の毒というか…(´∀`)


 「屁合戦絵巻」弘化3年(1846年)に写本された「福山画師 六十九翁 相覧」早稲田大学図書館所蔵
 この詳しい画像はこちらのサイトで見ることができます。とても面白いです。
                 ↓

 【昔の人はすごかった……互いを屁でぶっ飛ばすバトルを描いた江戸時代の奇想天外な絵巻物「屁合戦絵巻】


  屁合戦絵巻の絵の一部です。
  「屁合戦絵巻」馬上からの攻撃
                 馬上からの攻撃


                   「屁合戦絵巻」弘化3年(1846年)に写本された「福山画師 六十九翁 相覧」
                                 とばっちりを受ける猫




  第4章「戯れる」

 暁斎にとって、七福神は特別な意味を持っています。これに鍾馗や風神雷神、山姥などを含めても良いかもしれません。
 本来の役割を演じている場面もありますが、多くの場合、七福神は宴会をしていたり、自分たちの家来である鼠や鯛などと打ち興じていたりします。鍾馗(しょうき)もまた退治すべき鬼と戯れたり、あるいは鬼を使って曲芸を演じたり、危険な崖へ薬草を取りに行かせたりしています。
 
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                           《鍾馗と鬼》 明治15(1882)年

                             『鬼を蹴り上げる鍾馗』明治4-22(1871-89)
                           《鬼を蹴り上げる鍾馗》明治4-22(1871-89)
                               蹴りあげる動きがいいですね!




  第5章「百鬼繚乱」


 暁斎は写生を最も重視していましたが、後妻の阿登勢が亡くなったとき、暁斎は彼女を抱き起してその顔や姿を写生したといい、「幽霊図」はその写生を元に描かれたと伝えられています。
 また暁斎はさまざまな流派の研究に対しても、当時の絵師としては珍しいほど熱心でした。暁斎は先達の作品を参考にしながら、そこに原作者の筆意を感じ取り、場合によっては自らの写生も加味して、さまざまな異界の図像を作り出しました。

《百鬼夜行図屏風》1
                            《百鬼夜行図屏風》

《百鬼夜行図屏風》2
                            《百鬼夜行図屏風》  



                 地獄太夫と一休 明治4-22年
                        《地獄太夫と一休》明治4-22年  

  上の作品の部分拡大図です。どくろの三味線弾きがいたり、地獄太夫の着物の柄に七福神っぽいのがいたりと、自由自在の表現をしています

      jigokutayu4.jpg
         左側にはどくろの三味線弾き

                     jigokutayu5.jpg
               福禄寿か布袋様?

      jigokutayu6.jpg
                右下にはまた、どくろが。踊ってますねぇ♪


  第6章「祈る」「笑う」

 
 最後の展示には、観音図や達磨図の他に春画も。
 ここでは、暁斎のレパートリーの広さに改めて驚かされてしまいます。
 
 春画は笑い絵とも言われますが、性行為をする男女の横に猫がいたりと、暁斎の場合は文字通り笑いに溢れています。

 展覧会の会場では、春画のコーナーは入口が他のコーナーと分けられていて、その旨の注意書きがあったりしましたが、卑猥さはまるでなくて、来館者たちも気楽に鑑賞している感じがしました。以前、日本での春画の公開はスポンサーが嫌がるので難しいという話を聞いていたので、時代も変わったのだなぁとしみじみ。


  《龍頭観音》明治19(1886)年     「祈る女と鴉」
     《龍頭観音》明治19(1886)年                  《祈る女と鴉》



                         「義経と弁慶」明治4~22年
                             春画 《義経と弁慶》明治4~22年
                             今で言うBLってやつか(・∀・)


 暁斎の描く動物たちは、ユーモラスで可愛く、まるで人間社会を模しているように動き回っているし、女性は幽霊やら太夫も嫋(たおや)かで美しい。骸骨が大好きで春画も描いたりはしているけれど、社会を風刺したり、皮肉ったりはしていない。これだけの超絶技巧と面白い感覚持った画家って珍しいのではないでしょうか。


   『鳥獣戯画 鼠曳く瓜に乗る猫』 明治12(1879)年ごろ
              《鳥獣戯画 鼠曳く瓜に乗る猫》明治12(1879)年ごろ


                                  「地獄太夫かいこつの遊戯をゆめに見る図」
     《地獄太夫かいこつの遊戯をゆめに見る図》

          「花を活ける骸骨」
                  《花を活ける骸骨》
                     可愛い!


 最後に、今回の展覧会の開催にあたって、ゴールドマン氏から寄せられたのメッセージがHPに記載されていましたので、複写させていただきました。

   「なぜ、あなたは暁斎を集めているのですか?」 2002年、東京の太田記念美術館で私のコレクションによる最初の暁斎展について議論しているとき、初めて出会った有名な北斎研究家の永田生慈氏が、私にこういう質問をしました。これまで、だれ一人、このような直接的な質問をした人はいませんでした。ためらいなく、私は本能的にこう答えました、「なぜなら暁斎は面白いからです」

   私は暁斎を、その技術的な素晴らしさと人を魅了する力、感傷的でない動物の描写などで崇拝していましたが、何よりも彼の異様なほどのウィットとユーモアこそが、ほかの画家たちと彼との間に一線を画すことに気が付きました。
 私は、ロンドンのオークションで誰もが見落としていた彼の傑作、豪勢にも僅か55ポンドで落札して以来、暁斎の作品をおよそ35年以上にわたって収集しています。同じころ、私は一匹の象が遊んでいる小さい作品も入手しました。翌日、私はその小品を著名なコレクターに売却してしまったのです。しかし翌朝早くに目を覚まして、何か極めて価値あるものを失ってしまったことを嘆きました。数年間にわたって懇願した末に、それを買い戻すことに成功しました。(暁斎が私を発見したのであって、逆ではないと信じることは、コレクターの虚栄であります。)

   暁斎は収集するに値する素晴らしい芸術家であります。彼の作品は、スタイルにおいて、主題において、また技術において、ずば抜けた広がりを持っています。そして私は彼の代表的な作品を網羅するために、あらゆる努力をしました。今回の展覧会に展示されている作品の多くは、暁斎を愛する人々には良く知られているものですが、およそ80点は完全に新しい発見です。私はこのように暁斎に関する個人的な視点を表明する機会を与えられて、極めて有り難く思っています。 



 今回、参考にさせていただきましたBunkamuraでの展覧会の詳細は下記のサイトでご覧になれます。
     ↓
  【ゴールドマンコレクション これぞ暁斎!】


 

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DEVID BOWIE is ~ デヴィッド・ボウイ回顧展に行ってきました


 4/9(日) に東京都品川区にある寺田倉庫G1 ビル(天王洲)で催されていた

  ”DEVID BOWIE is ~ デヴィッド・ボウイ回顧展”

  に行ってきました。


          170409_094540.jpg    

                                 
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 開催期間は、2017年1月8日(日)~4月9日(日)で、行ったのが最終日だったので、激混みかと思っていたのですが、時間指定制だったこともあり、意外とゆったりと観ることができました。

  『DAVID BOWIE is』
 このライブ会場に行ったような感覚の展覧会は、2013年に英国の ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催されて以来、世界9都市を巡回。 約160万人を動員し、日本はアジアでは唯一の開催地だそうです。そして、東京では3ヶ月で、12万人を動員しました。ちょうど、開催期間中の1月10日はボウイが亡くなってから1周忌ということで、会場には献花台が設けられたそうです。


 展示の内容は5項目に分かれていて、こんな感じでした。

 1.STARMAN

 1972年7月6日に、BBCの大人気音楽番組 に出演したボウイが披露した“スターマン”のパフォーマンスは、ジギー・スターダストという名キャラクターの誕生を知らせ、まだまだ保守的だった英国社会に大きな衝撃を与えた。 70年代のポップ・ ミュージックの流れを変えたとされている歴史的パフォーマンスを紹介。

   exhibition01-2.jpg

 「僕は誰かに電話をせずにいられなくて君を選んだ」 と歌いながら、 ボウイがこちらを指差す瞬間、 テレビを見ていた若者たちが覚えた興奮を、 再確認できるはず。


 2.FASHION

 想像上のキャラクターになり切るために、 服、 メイクアップ、 ヘアスタイル、 ファッションの力を最大限に利用したボウイ。 彼は、 1970年代初めの 『ジギー・スターダスト』 時代 の山本寛斎、 1990年代後半の 『アースリング』 時代のアレキサンダー・マックイーンを筆頭に、世界中のトップ・デザイナーたちとコラボレーションを行なったり、バレエや演劇など 舞台芸術のスペシャリストたちの手を借りたりしながら、 時に奇想天外で、 時に性差を超えた、 インパクトあふれるスタイルを作り出してきた。

 ボウイ展には、そんな彼が着用した、衣装の数々が集結。 着ても動けそうにない衣装もw

          ジギースターダスト2      ジギースターダスト      
              山本寛斎デザインの衣装                  Ziggy Stardust


          exhibition02-3.jpg


 
 3.JAPAN

 日本文化からインスピレーションを得て、西洋と東洋を交錯させた親日家ボウイの、日本との関わりを解き明かす。

 例えば、 歌舞伎にすっかり魅せられたボウイは、 ライヴ・パフォーマンスに歌舞伎の化粧法や早変わりのテクニックを取り入れたり、 日本人のクリエイターたちとも、 積極的にコラボレーションを敢行。 『ヒーローズ』 のジャケット写真を撮影するなど、 40年以上にわたってボウイを撮り続けた 鋤田正義の写真、 山本寛斎が1970年代にデザインした、 今見ても斬新きわまりない衣装は、 彼のキャリアで重要な役割を担った。 ふたりの作品のほかにも、 1977年発表の楽曲“モ ス・ガーデン”のレコーディングに使われたミニ琴や、ボウイ自ら描いた三島由紀夫の肖像画が展示されている。


                             ボウイが描いた三島由紀夫の肖像画
                         exhibition03-2-5.jpg



 こちらは今回の展示にはなかった写真ですが、親日家のデヴィッド・ボウイは1980年に京都にしばらく滞在し(九条に別荘があったという噂が…)あちらこちらの店やライブ会場などに出没していたそうです。わ~、お会いしたかった♪O(≧∇≦)O♪
 ボウイの逝去に際して、阪急電車は公式ツィッターで、1980年に彼が来日した際の写真を公開しています。昭和のレトロな列車とボウイ様のコラボが凄くお洒落ですよね!


      japan.png

      阪急電車

 ジャパン2


 4.SOUND&VISION

 どのようにして“音楽を展示”するのかという難問に対して、ボウイ展が出した答えは、 最新のテクノロジーを駆使した、 まったく新しいマルチメディア体験を用意すること。
 それらを体験するために、デヴィッド・ボウイ回顧展では、入場者ひとりひとりに専用のヘッドフォンを提供し、 各セクションの内容とシンクロさせた楽曲やインタヴュー音源を聴きながら、展示を 見て、 目と耳でボウイの世界に完全に没入できる仕組みを考えた。
 中でもクライマックスで待ち受ける 「ショウ・モーメント」 のセクションは、 ボウイ展の最大のハイライト。 四方から息つく暇もなく流れてくる映像と音楽は、その場にボウイが降臨したかのような迫力が。

 このゾーンの展示の中に、ボウイが作詞をする際にとった手法の一部を紹介していました。それは、コンピューターであらかじめ抽出した言葉をランダムに組み合わせ、その中の幾つかからインスピレーションに合った文を選んで歌詞にしてゆくというものでした。これって、私たちもやってみたら、彼のような感性豊かな歌詞が書けるかも。


             exhibition04-6.jpg


 5.SPECIAL

  日本オリジナル展示
 「DAVID BOWIE MEETS JAPAN」


  北野武・坂本龍一両氏が 『戦場のメリークリスマス』 を今、語る。

          senmeri.png

 『戦メリ』の撮影時のデビィッド・ボウイの印象をたけしさんと、音楽と俳優両方を担当した坂本龍一さんが語っていました。彼らはボウイとは言葉を交わすことは少なかったけれど、ボウイの演技は、多くを語らなくとも非常に深い理解のもとに行っていたと思うと言っていました。
 『戦メリ』のあのテーマソングの美しい旋律は、何度聞いても心に響いてきますね。

 今回、この回顧展を観て、改めてデヴィッド・ボウイって、かっこいいと思ってしまいました。ヘッドフォンをつけて観て回る展示方法も斬新だったし、映像も臨場感がたっぷりで迫力がありました。でも、一番、私の印象に残ったのは、展示の一角にあった小さなビデオ映像でした。
 それは、NHKの「新・映像の世紀」に収録されていた、1987年、西ベルリン(当時)で、ボウイが行った”ベルリンの壁コンサート”を聞こうと殺到した東ドイツの人々の映像。
 東西冷戦時代のこの年に、ボウイは壁のすぐそばの西ベルリンでコンサートを開いたのです。しかも、スピーカーを、壁の向こうの東ドイツ側に向けて。その時に歌った歌は「ヒーローズ」
 「ヒーローズ」は、ベルリンの壁の下で落ち合ったカップルをテーマにした曲。この歌を歌う前に、彼は観衆に向かって、「壁の反対側にいる私たちのすべての友人たちに願いを送ります」とドイツ語で述べ、男女が出会うその日の間だけ「ヒーローになれる」と高らかに歌い上げたのです。その映像がこちら。

       
                              david bowie berlin

 この2日後、アメリカ大統領のロナルド・レーガンがドイツ人に対し、「この壁を壊しなさい」と求め、ベルリンの壁はその2年後の1989年11月に崩壊しました。
 この歌は、2012年のロンドンオリンピック開会式でイギリス選手団の入場曲にも使われました。
 そして、ドイツ外務省は、デヴィッド・ボウイが亡くなった時、公式ツィッターを通して彼がベルリンの壁崩壊前の1987年に西ベルリン(当時)でコンサートを開き、ヒット曲「ヒーローズ」を歌ってくれたことへの感謝の意を表明したのです。

  Good-bye, David Bowie. You are now among #Heroes. Thank you for helping to bring down the #wall.
  「グッド・バイ、デヴィッド・ボウイ。あなたは今、#ヒーローズ の一員になりました。壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」と

世界の伝説的なロックスターであるボウイは18カ月間にわたるガンとの闘病生活を経て、1月10日に死去しました。享年は69歳。
これは、彼の死の2日前に撮られた新曲用の写真です。
 最後まで素敵でスタイリッシュでかっこいい。本当のロック魂を持った方だったんですね。その姿と心、そして音楽は永遠に人々の心に生き続けると思います。



              david-bowie2.jpg
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                          最後に、これは、私のお気に入りの写真です(^-^)
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

kazanasi

Author:kazanasi
絵画、小説を中心に観たり読んだり、自作で作ったり。サブカル全般に興味があります。暖かい時期には山登りもします。アナログとデジタルの間を行ったり来たりしてる人間です。


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